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真田丸以前、真田4兄弟の物語。

2016/11/27



真田家4兄弟の物語。

 

「信伊叔父上はレクター?(笑)」で少し書かせて頂きました。 信伊叔父(栗原英雄さん)がなぜ殉教者のごとく真田本家に尽くすのか。昌幸(草刈正雄さん)、大叔父の矢沢頼綱(綾田俊樹さん)、そしてまだ若い信幸(大泉洋さん)、信繁(堺雅人さん)、三十郎(迫田孝也さん)・・なぜみな真田の為に一丸となって戦うのか。

 

今回は真田丸以前、真田家4兄弟の物語を書かせて頂きます。

 

父は真田幸隆。
母はとり(恭雲院)

嫡男・真田信綱
次男・真田昌輝
三男・真田昌幸
四男・真田信尹

 

そう、信繁と信幸の一世代上の物語です。

 

父・幸隆は真田家中興の祖といわれています。
信濃国小県郡の豪族、海野家の血筋とも言われていますが、 それまで真田家がどういう家であったかさだかにはわかっていません。

 

父・幸隆は新参の家臣でありながら 武田信玄公に信頼され重用された人物であり、 譜代家臣と同等の待遇を受け、 甲府に屋敷を構えることを許されました。外様でありながら信玄から破格の扱いをされていたのが信繁と信幸のおじじ様・真田幸隆なのです。

 

幸隆は武田信玄公が剃髪して出家すると、 自分も出家し一徳斎と名乗りました。永禄10年(1567年)長男の真田信綱 に家督を譲ります。そしてほどなくおじじ様は亡くなります。

 

真田信綱は武勇に優れ頼りになる兄でした。昌幸達とは10歳違い。武田家の騎馬200騎持の侍大将。幸隆の嫡男として若い頃から武田の主要な戦いには必ずといって良いほど参加しています。先鋒を務め武田家の主力の一部分を担っていました。

 

次兄の真田昌輝は昌幸達とは4歳違い。騎馬50騎持の侍大将。小姓として信玄に近侍し、真田本家とは別に真田家を興す事を許され、兄信綱と行動を共にすることが多かった様です。

 

昌幸は幸隆にとって三男。信伊は幸隆にとって四男です。
上に優秀な兄がふたりいましたので、 昌幸も信伊も他家に養子にいっています。 幼い頃から主家の武田家の真田との人質として甲州に住み、 二人とも信玄に近侍として仕えていた様です。

 

昌幸と信伊は同じ年です。
双子かもしくは信伊の母は側室であったといわれています。 真田丸では人質となっていたおばば様との再会シーンで、 おばば様とりに信伊叔父が嬉しそうに肩を揉むシーンがありましたので、 実子なのではないかと思いましたが、さだかなことはわかりません。私はあのシーンが大好きです(・▽・*)

 

昌幸は
天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐へ下り、武田信玄の奥近習衆に加わりました。 父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事もあります。京の 公家の姫を(母上・薫のことですね)正室としてもらい、 昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族のひとつ武藤家の養子となり、 「武藤喜兵衛(むとうきへい)」と称し足軽大将に任じられ、部下は騎馬15騎、足軽30人と伝えられています。  養父の武藤三郎左衛門尉は戦いで亡くなったとされ、 昌幸は既に武藤家の領地を継いでいたと見られています。

 

信伊は
主君の武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、 名門・加津野氏(和野、鹿角)の名跡を継ぎます。加津野昌信(かずのまさのぶ)と名乗り 、武田勝頼に近侍して騎馬15、足軽10を率いる槍奉行を務めました。 妻は武田の重臣・馬場信春の娘。 北条綱成の守る駿河深沢城を信玄が陥落させた時、 信伊は北条綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取り、 その旗を褒美として貰っています。

 

ふたりとも真田家の主家のお館さま・信玄公の覚えめでたく、 武田家に仕え武勇を競っていた昌幸と信伊。 この時って良い意味でライバルだったのではないでしょうか?

 

他の人がうらやむ(たとえば、室賀正武さんとか?笑) 武田家家中で重用されたふたり。それぞれの養子先の家を盛りたてる為に頑張っていたはずです。

 

養子先はぶっちゃけ、真田家より格が上。 真田はおじじ様幸隆の代から武田家に仕えた外様ですが(おじじ様は立場以上の信頼を信玄公から頂いていた様ですが) 昌幸の養子先の武藤家は武田家の親族、宿老にもなれる立場であり、 信伊の養子先、加津野家は甲斐の名門、二人とも将来を約束された立場でした。

 

しかし、信玄公が亡くなり・・
その後、真田家に悲劇が訪れました。

 

長篠の戦いで兄二人が亡くなったのです。

 

長篠の戦いは信長が鉄砲を使い、武田を破った有名な戦いですが、 武田家家中にとっては悲惨極まりないものでした。

 

まず鉄砲でやられ、その後勝頼の撤退の指示が遅れ、武田の兵達は撤退途中に後ろから追ってきた織田兵に襲われ、 また勝頼を逃がすために多くの武将が犠牲になりました。 さすが武田の武将、お館さまと仲間を助ける為に盾となり見事倒れていったのでした(涙)想像してみて下さい、今まで親しくしてきた沢山の同輩が目の前で倒れていく情景を・・

 

ふたりは近習ですので、おそらく当主・勝頼の側にいたのではないでしょうか? 仲間や真田の兄達、真田の兵を心配しながら、いらいらしながら、 敵がきたら自らも盾となり亡くなる覚悟で勝頼公に従い・・必死に勝頼公を守り敗走した。

 

真田家は祖父・幸隆が亡くなってから一年もしないうちに、 またもや当主兄弟を失くしたのでした。 もちろん兄・信綱、昌輝 に付き従った多くの真田の兵達も。 昌幸は武藤家を去り、真田の当主となるべく真田の郷に帰ります。 しばらくして信伊もまた加津野を去り真田の名前に戻ります。

 

真田昌幸と真田信伊。
その名前に戻る二人はかなりの覚悟が必要だったのではないでしょうか? 主家の武田家は斜陽、真田家は周りを強敵に囲まれている。

 

ここからは私の推測ですが・・

 

真田丸の昌幸と信伊。
真田の郷と北条。真田の郷と上杉。真田の郷と海津城。 そして上田城と徳川。兄弟、遠く離れていても二人の共通の意思は固い。 昌幸と信伊は裏と表。 危険な場所に行く弟にすまないという素振りは見せないし、 兄さん、そりゃ酷いよ、俺の身になって考えてみてよなんて会話もない(笑)

 

兄が当主だからといって弟が命に関わる危険と隣り合わせのミッションをする必要はない。 もう好きにどこかに任官して真田を去ればよい。なのに真田の為に自分危険を顧みず昌幸を影から支える信伊。

 

ふたりの共通の意思は

「真田家を守りきること」

 

2人は動揺なんてしない。もう覚悟してるから。
信綱、昌輝 という兄が亡くなった時に自分達の私情も捨てたのではと思うのです。 勝頼公を守って亡くなった武田家の武将達の姿も脳裏に焼きついていることでしょう。信綱、昌輝と共に果てた同胞、真田の兵達の事も。

 

当時の真田家の主力は信綱、昌輝軍ですから・・真田の郷に守備として残してきた兵以外はほとんどが信綱と昌輝についていたのではないでしょうか。もしかしたら作兵衛と梅のお父さんもここで亡くなったかも知れないですね。

 

昌幸と信伊。

 

ふたりはもう覚悟をしている。

 

そして親から子へ、叔父から甥へ。真田家の歴史を伝え聞いている。もういなくなってしまった祖父や伯父達、真田家家臣、武田家の武将達の事を。

 

子も甥も一緒に覚悟を決める。現在の重臣・高梨内記も出浦昌相もそして佐助ももういなくなってしまった人の意思を継ぐ。

 

将来、信繁も信幸も三十郎も子供達にこの思いを伝えていく。

 

お読み下さりありがとうございました( ' - ' *)
【真田丸の昌幸】
↓真田丸の昌幸と信繁、信幸ならこんな会話かもしれないですね♪

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