【ネタバレあり】登場人物紹介

若くして散った幸村の息子大助

2016/12/19

大坂城に父の幸村と共に入城した息子の真田大助。真田丸での戦いでは「高砂や~♪」と六文銭の旗を振り大活躍を見せた大助。大助の最期は・・?キャストは俳優の浦上晟周(うらがみせいしゅう)さん

真田大助の生い立ち

真田大助(さなだだいすけ・たいすけ)は真田幸村(信繁)の嫡男として和歌山の九度山にて生まれました。 母は竹林院(ドラマでは春)。この九度山で大助は人生の大半を過ごしています。

 

大坂の陣では父・幸村や家族と一緒に大坂城に参陣し、父に付き従います。 生年ははっきりとはわかっておらず、幸村が九度山に蟄居になってから生まれた子なので、 大坂の陣に参加した頃は14歳~11歳頃であったと思われます(諸説あり)。若いですね。

 

2人の祖父

大助は真田幸昌(さなだゆきまさ)という名前でも伝わります。おじじ様の真田昌幸の名前を反対にした名前ですねΣ

 

⇒ 真田家の名前の謎

 

真田大助の父方の祖父は真田昌幸(キャスト:草刈正雄さん)。母方の祖父は大谷吉継(キャスト:片岡愛之助さん)という大助は謀将✕知将をかけ合わせたまさにサラブレッド。

 無事に成長したらどんなに立派な人物になっていたでしょうか。。

 

NHKあさイチの「プレミアムトーク」に大谷吉継役の片岡愛之助さんが出演された時、(関ヶ原の戦いで)自分の出番は終わったはずなのに「孫の大助の成長も楽しみにしています」とおっしゃって、暖かい気持ちになりました。

 

父・幸村と大助の永遠の別れ

大助は大坂冬の陣では真田丸の戦いで父・幸村と共に戦い、大阪夏の陣では「道明寺の戦い」に出陣し活躍をみせますが、途中で

 

父の真田幸村は大助を大坂城にいる秀頼のもとへ行かせます。

 

理由としては

・秀頼に出陣を願い出るために大助を派遣した。

・和睦しようとしている秀頼を阻止する為に行かせた。

 

など諸説ありますが、親心として最後の決戦に出陣させるのがしのびなく(まだ安全な)秀頼のもとに行かせた、もしくは大助が散る姿を見たくなかったということも考えられると思います。また和睦になれば豊臣家滅亡寸前で助かりますし。

 

大助は父のもとを離れがたく激しく抵抗したといわれています。

 

大助にも最後の戦いとわかっていたのでしょう。父上のもとで戦いたいと幸村(信繁)に訴えかけますが、父・幸村に説き伏せられ、やむなく秀頼のもと大坂城へ向かいます。

 

幸村と大助、父と子の永遠の別れ

 

別れの場面を想像すると切なくて悲しくて涙が出てきます

 

和歌山県九度山にある「九度山真田ミュージアム」では真田幸村と大助の別れのシーンをドラマ仕立てで見ることが出来ます。ぜひ一度お立ち寄り下さい。

⇒ 【おススメ】九度山真田ミュージアム!

真田丸での幸村と大助の別れ

なかなか出陣しない豊臣秀頼に対し、真田幸村は嫡男・大助を出陣をうながす使者として大坂城に使いにやることを決めます。大助は「父上と伴に戦いとうございます」と願いますが、父幸村は「そなたは(若輩で足に傷を負うており)足手まといになる」と言います。そしてほっぺを触り「頼んだぞ」と。

 ばば様(キャスト:草笛光子さん)から続く、真田家の伝統。ほっぺを触る。ほっぺをペチペチする。愛する家族にする愛情表現。。大助は幸村のもとを離れ大坂城に向かいます。

 

真田大助の最期

真田幸村が徳川家康への猛攻のあと戦場で散ったのは、慶長20年5月7日(西歴では1615年6月3日)です 。それからたった1日後の慶長20年5月8日大坂城は落城します。

 

真田大助はまだ少年であったため、他の家臣達から脱出を勧められますが、豊臣秀頼と茶々に付き従い、天守閣が炎上すると一緒に山里丸の櫓に籠もります。

 

徳川軍に包囲される中、豊臣秀頼、淀殿(茶々)、大蔵卿局、大野治長ら30数名の者達はここで天運尽き果て命を落とします。その中に大助の名前もありました。幸村と同じく豊臣に忠義を捧げたのですね。なんて立派な最期。しかしあまりに若く悲しい・・

 

大助は「われは真田左衛門佐信繁のせがれ(息子)なり!!」と叫んだと伝わります

 

少年ながらも父・幸村の名前に恥じぬ立派な若武者として大坂城に散った真田大助。父の幸村もおじじ様の真田昌幸、大谷吉継もきっと「あっぱれ!」と褒めてくれた事でしょう。。

真田丸での最期

真田丸最終話では当然、大助の最期が描かれると思っていましたが秀頼や茶々の最期と共に描かれず。。真田丸最終話で登場人物の最期まで全て見たかったというお声は当然ある様です。私もそう思うトコロもありますが、大助に関して言えば見たくなかったかも。あまりに可哀想で。

 

若年でありながら秀頼に最期まで付き従った事は美談として書かれますが、美談なんかいらない、生きていて欲しかったと思うのです。

 

ドラマ真田丸での大助

大河ドラマ真田丸での幸村の嫡男・真田大助は最初の頃、九度山村の子供達に苛められたり、内気な少年でした。活発な昌幸よりどちらかと言えば物静かな知将・大谷吉継に似ているのではと思いました。

 

村の子供達にいじめられていることを知ったおじじ様・真田昌幸は、大助に秘策を授けます。

 

↓記事に大助とじじ様昌幸の交流が書いています。他の孫達と合わせて良かったらお読み下さい♪(大助のエピソードは下の方です)

⇒ じじ様昌幸と孫


高梨内記は大助の傅役(もりやく)となり囲碁を教えますが、まったく手加減する事をせず大助を鍛えます。負け続けて落ち込む大助が可哀想でしたね(苦笑)大助の真面目な人柄が読み取れました。


父の真田信繁(幸村)との父子関係ですが、最初の頃ギクシャクしている感じがあってとても不思議でした。信繁は九度山に蟄居の身で大助とは赤ちゃんの頃から長い時間過ごせてきたはずなのに、そして信繁は人の心を掴むのがうまいのに「どの様に接したら良いのかわからない」と言ってましたね。

 

大人への接し方と子供への扱いはまた違うとは思いますが、おじじ様の真田昌幸は息子である源三郎信幸(信之)と源次郎信繁(幸村)の扱いは天下一品でした。2人はパッパ昌幸に反発もしましたが、打ち解けた距離が近い父子関係。偉大な父親像として真田昌幸の姿が浮かび上がりました。そういえば兄の真田信之の息子達、信吉、信政兄弟もいまいちうまくいっていませんね。


ともあれ、幸村と大助父子は囲碁などで交流し、大坂城に入ってからは父・幸村の采配を間近に見て父の偉大さを感じ、2人の距離は以前よりずっと近くなったようです。

 

おじじ様代わりの高梨内記が側にいることも大助にとっては心強いですね!大助は高齢の高梨内記の体を時々気遣っています(優しい)


真田丸の戦いでは前田利常軍を「高砂や~♪」と六文銭の旗を振り挑発した真田大助。その姿は第一次上田合戦の源次郎信繁の様で、ずっと真田丸を見てきた視聴者には感涙のシーンでした。


父の後ろ姿を見て、どんどん成長していく大助。豊臣の若武者・木村重成と同じく、武将達の戦う姿を間近で見て、吸収し若竹の様に伸びゆく次世代の名将・・

 

豊臣秀頼、木村重成、そして真田大助のキラキラとした若さが眩しく、そして結末を思うとあまりにも切なく哀しい・・
大坂夏の陣「道明寺の戦い」では敵を倒すも足に矢を受け負傷、「大助!」と叫ぶ父の真田幸村。

 

真田大助役の浦上晟周さん

真田大助のキャストは俳優の浦上晟周(うらがみせいしゅう)さん。ツイッターで真田丸に関して時々呟きをされています。


↓真田信尹役の栗原英雄さんから真田紐を頂いたのですね、叔父上優しい♪


父・幸村役の堺雅人さんにも優しくされて・・せいしゅうくん愛されてる~


あら、髪型が(・▽・*)
大河ドラマ真田丸のメイク室はこんな感じなのですね。


「おのおの抜かりなく!」
学業と俳優業の両立は大変ですね。


おおっ!パッパの毛皮カバーだ( ;∀;)
気づかなかった・・
孫に受け継がれるパッパの愛用の品


夕日(朝日?)に輝く真田丸のセット

真田大助、あまりに短い生涯ですが、父・真田幸村と共に伝説となりました・・


幸村の最後とともに大助の最後も見届けたいと思います!

浦上晟周さんお疲れ様でした。真田大助はきっと喜んでくれてると思いますよ!感動をありがとう・・

 

最後までお読み頂きありがとうございました

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