【ネタバレあり】登場人物紹介

真田信之93歳まで生き抜く

2016/12/20

真田源三郎信之(さなだげんざぶろうのぶゆき)。彼は最愛の弟・真田源次郎幸村が亡くなった後も93歳まで生き抜きます。真田丸最終話で語られなかった信之お兄ちゃんの人生の続きです。(本当は真田丸ですると思ってました。スピンオフの題材かも!)

生きろと幸村に言った信之

 


真田丸49話「前夜」にて大坂城での再会が永遠の別れとなった真田信之と真田幸村兄弟。二人で酌み交わして欲しかったですよね・・・でも最期の別れになるのが嫌だから、生きていて欲しかったから、出来なかった・・。

 

真田信之の一歳違いの弟・真田源次郎信繁(幸村)は慶長20年(1615年)大坂夏の陣で見事な戦いの末に散りました。享年49歳。最終話でも出ていた幸村最期の場所は安居神社。現在の大阪市天王寺区にあります。

お兄ちゃんの絶えない心労

真田信之の人生は気苦労が絶えない人生でした。真田丸本編でも真田信之の苦労は見受けられましたね。徳川家康の重臣本多忠勝の娘・稲を正室とし、その後徳川の家臣となった真田信之。

父と弟は徳川の敵

1600年関が原の戦い前、父の真田昌幸と弟・真田信繁(幸村)とは「犬伏の別れ」で別れ、信之は徳川家康方の東軍、父と弟は石田三成の西軍につきました。その後父と弟は紀州の九度山に流され、信之は真田の領地で父と弟への仕送りと浅間山噴火で荒廃した領地の復興に尽力します。

徳川の公務に励む真田信之

幕府との関係は「父と弟は徳川に逆らった罪人」でしたから神経を使うものでした。幕府の公務も積極的に行い徳川のご機嫌を伺う日々・・寛永13年(1636年)に江戸城の外堀延長工事で完成した「真田堀」は全長およそ14キロ。真田信之が普請したものです。

上田から→松代に移封


元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封されますが、真田の故郷上田は仙石忠政が入り、所領は没収されます。その後上田が真田家に戻ることはありませんでした。

 

信之は松代でも領民に慕われる領主であったと言われます。(最終話で本多正信からされたアドバイスが効いたのでしょうか、笑)

 

稲の最期

信之の正室稲(小松姫)は突然亡くなります。弟・真田幸村がなくなってから5年・・元和6年(1620年)、稲は江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、中山道の武蔵国鴻巣にて亡くなります。享年48歳戒名は大蓮院殿。

おこうの最期

また史実ではあまり語られていない側室おこう(清音院殿)の最期ですが、真田丸の時代考証黒田基樹さんの著書「真田家を継いだ男の半生~真田信之」によると、おこうと稲は半年もしないうちに続けてなくなったそうです。

三十郎とまつ姉上も信尹叔父上も

☆寛永3年3月21日(1626年4月17日)矢沢三十郎頼幸(頼康)没

☆ 寛永7年6月20日(1630年7月29日)まつ(村松殿)没

真田家筆頭家老であった三十郎と姉のまつも亡くなります。

☆寛永9年5月4日(1632年6月21日) 真田信尹没

信尹叔父上は徳川将軍直接の家臣(幕臣)として働き86歳まで生きました。子孫は代々旗本として徳川に仕えていきます。

長男真田信吉は40歳で亡くなる

☆寛永11年11月28日(1635年1月16日) 真田信吉没

本家松代藩の分領として沼田城の初代城主となっていた信之の長男・真田信吉が40歳の若さで亡くなります。

松の夫小山田茂誠さんも

☆寛永14年8月3日(1637年9月21日) 小山田茂誠没

松の夫・真田家次席家老であった小山田茂誠さんも亡くなります。


大切な人達が亡くなっていく・・

 

それでもお兄ちゃん・真田信之は真田家当主として真田家と真田領地を守り生き抜いていきます。幸村が亡くなってから40数年間も

 

最晩年には問題発生

最晩年には沼田領を巡り問題が発生します。

 

松代藩の分地である沼田藩は真田信之 → 真田信吉(長男) → 真田熊之助(孫) → 真田信政(次男)→ 真田信利(孫)と藩主が変わります。

 

真田信吉の息子熊之助が早世したため、真田信政が沼田を一時管理していましたが、信之隠居に伴い明暦2年(1656年)、信吉の息子・真田信利(信直)が沼田城主になります。信政は真田本家を継ぎます。

 

しかし、信之の次男真田信政が2年後(1658年)に亡くなると、真田信利(信直)は真田本家を次ぐのは本来信之の長男信吉の子の自分である と主張し、幕府に訴え出ました。

 

真田信之はまだ生きていたので、信之の幕府への働きかけと信政の遺言により、信政の子・右衛門(幸道)の相続と決定しました。無事治まって良かったですがお家騒動は廃藩になる可能性も高いのでかなり危ない状況でした。最晩年なのに・・信之お兄ちゃんこの時93歳。

 

それでも93歳まで生き抜く

☆万治元年10月17日(1658年11月12日) 真田信之没

最晩年の騒動が精神的にこたえたのでしょうか・・

 


真田信之はその2年前まで真田家の当主でした。幕府を支えてくれと徳川幕臣達から隠居を止められていたそうです。家督が譲られないため息子の真田信政は不満を持ち、晩年は親子関係は良くなかったそうです。

 

御三家の紀州徳川家の藩主であり、家康の10男徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は信之の事を尊敬していたそうです。四代将軍徳川家綱は信之を「天下の飾り」と称しています。

 

信之は書物や逸話で弟・幸村を語っていたのが現代にも伝わっていますが

 

信之は幸村の事を褒めているのです。

 

ここからは私の想像ですが・・

 


たとえば紀州藩邸で藩主の徳川頼宣から

 

たとえば江戸城内で徳川の若い侍たちから

 

「真田伊豆守殿、戦国の世の話をして下さらぬか?」「ぜひ弟君、真田幸村公のお話を!」話をせがまれ、とうとうと語る信之お兄ちゃんが見えるようです。あ、パッパ真田昌幸の話もせがまれますよねきっと!


戦国一の兵(せんごくいちのつわもの)といわれ、稀代の英雄となった弟・真田幸村と、徳川を2度に渡り合戦において打ち負かした名将・真田昌幸を父に持った真田信之。

 

真田信之は戦国時代を生き抜き豊臣恩顧の武将達が続々と改易、廃藩される中、真田家を守り抜いた・・

 

 

お兄ちゃん・真田信之も凄い人だと思いませんか?

 

真田信之は平和になった徳川の世で長い年月、ひとり回想していたのではないでしょうか?懐かしい人達のこと、若い頃の真田の郷のこと、上田合戦、豊臣の世の京の賑やかさ華やかさ、犬伏の別れ、武将達のこと、大坂の陣のこと・・愛する弟・真田源次郎信繁。

 

3人は天国で再会してきっと酌み交わした事でしょう。話はなかなか尽きませんね(笑)

 


最後までお読み頂きありがとうございました。

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