信繁の5女、お田の方
2019/12/14
信繁の5女おでんの方。側室たかとの間に出来た なほ(お田の方・おでんのかた)は7/17日の真田丸紀行でも紹介されていました。
今回は真田源次郎信繁の五女のなほ(お田の方、御田姫)をご紹介。
信繁は何人もの子供を授かりました。大坂の陣でヒーローとなった真田信繁(真田幸村)。その妻と子供達もそれぞれ波乱の人生をおくります。子供達がどの様な生涯を送ったか少しづつご紹介していきます。
信繁の5女、お田の方(おでんのかた)
彼女は側室のたか(隆清院)を母に持ち、信繁の5女として生まれました。母親のたかは豊臣秀次の娘。世が世なら関白の姫君として優雅な人生を送るはずでした。しかし豊臣秀次が失脚、高野山で自刃した為、秀次の妻子はほとんどすべて処罰され亡くなりました。
たか は処罰の手から逃れ、生きながらえます。真田丸では聚楽第のバテレン信仰の隠し部屋に隠れていた「たか」を真田信繁と片桐且元が見つけ、信繁が側室とし匿い、その後堺の豪商、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の手を借りてフィリピンのルソン島に逃がすストーリーでした。
正室の大谷吉継の娘「はる」と
側室の豊臣秀次の娘「たか」をほぼ同時に貰った信繁。
信繁の5女、なほ(お田の方)は恐らく真田信繁が九度山に蟄居に生まれた娘だと考えられます。九度山に信繁がいたのは14年あまり。真田庵(現在の善名称院)での生活は信繁の子供達が兄弟みんなで育ち、賑やかだった事が想像されます。信繁や大人達にとっては生活が苦しく、また無位無官で日々過ごすのですから、信繁にとっては虚無感もあったと思いますが・・
九度山の暮らしですが・・ただ私は真田丸の父上、真田昌幸(俳優:草刈正雄さん)と真田信繁(俳優:堺雅人さん)、それに高梨内記(俳優:中原丈雄さん)らと、信繁の妻子がいたら・・世間のイメージとはうらはらに楽しい賑やかな暮らしだったとしか考えられなくて(;´∀`)w
子供達にしたら風光明媚な九度山の里で、兄弟姉妹や真田のじじ様、父上、母上たち、真田の家臣みんなで暮らせるんですから、めちゃ楽しかったイメージしかわかない(笑)
高野山のふもと和歌山の九度山はとても良いところですよ♪真田庵も九度山真田ミュージアムもありますし
高野山にいけば真田昌幸、真田信繁親子が一時滞在した「蓮華定院」も たか の父豊臣秀次が自刃した「金剛峯寺(当時は青巌寺)」もあります( ;∀;)
さて、真田信繁は1615年、豊臣秀頼の要請に従い、九度山を抜け出し大坂の陣に参戦します。大坂城内に屋敷を貰い信繁の妻子もそこで暮らしたようですが、詳しいことはわかっておりません。そして大坂冬の陣と大坂夏の陣で真田信繁と「なほ」にとっては兄にあたる嫡男、真田幸昌(大助)が奮戦したのち亡くなります。
【大坂の陣後のなほ(お田の方)】
信繁の5女なほ(お田の方・御田姫)は大坂の陣のあと、母親のたかと一緒に逃亡の生活に入ります。一説には たかの祖母にあたる豊臣秀次の母、日秀尼(にっしゅうに)に匿われたとか。また伯父の真田信幸(信之)の助命により徳川に赦され、江戸城内で侍女として仕えたと伝わります。
そして東北の大名、佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)の弟、岩城 宣隆(いわき のぶたか)に嫁ぎます。岩城 宣隆(いわき のぶたか)は後に出羽亀田藩の2代目藩主となり、なほ(お田の方)は正室として現在の秋田県由利本荘市に居住することとなります。
ここに実母弟の信繁の3男、幸信を京から呼び寄せ(三好幸信)育て、亀田藩士としました。三好幸信の「三好」は豊臣秀次の旧姓からとったものです。(秀次は幼い頃、三好康長の養子でした)
また父母の菩提寺として妙慶寺(みょうけいじ)を建立します。妙慶寺には真田家の家紋である六文銭が色々な場所に・・父母の信繁とたかの墓はありませんが、位牌が残っています。
なほ(お田の方)は嫡男、3代目亀田藩主の岩城重隆(いわき しげたか)を生み、重隆を厳しく育てたそうです。女性ながら武芸にもすぐれ、なほ(お田の方)着用といわれる甲冑が妙慶寺宝物殿に残っています。
なおの甲冑には兜に、真田の家紋である六文銭とU字型の飾りが付いていて、その兜は父上、真田信繁とおじじ様真田昌幸の兜をミックスした様なデザインです。なほ(お田の方)は父上とおじじ様に思慕がありずっと忘れなかったのでしょうね。女性ながら真田家の武と知を受け継いだ勇ましい女性だったかも知れません(・▽・*)
戒名は顕性院(けんせいいん)と伝わります
最後までお読み頂きありがとうございました
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